京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

<京都教会を訪れて>(教区総会2011での准允・按手礼式)

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──日本キリスト教団 京都教会を訪れて──
 
2011年5月 京都教区総会での准允・按手礼式
 
 
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 日本キリスト教団 京都教会。

 この教会を会場に、5月3~4日(火~水)に、
 日本キリスト教団京都教区滋賀県京都府の78教会・伝道所)の、
 総会が開催されました。
 
 お世話くださった京都教会の皆様、総会準備委員会の皆様、
 その他関係者の皆様に深く感謝いたします。
 
 (当日は曇りだったので、上3枚の写真は、晴れた別の日の夕刻に撮影し、
 また、電線を一部消していますことをご容赦ください)
 
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(以下、参考)
過去の「京都教区総会」の記事を、
以下アドレスをクリックするとご覧いただけます。

                                      

 
その他、京都教区の各教会などへの、様々な訪問記を、
以下をクリックするとご覧いただけます。

 

                                       

 
 
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 この教区総会の中で、毎年行われているものとして、
 准允(じゅんいん)式・按手礼(あんしゅれい)式がある。
 これらは、ともに、教会の教職者となる資格を授与する式のこと。
 
 この式のとき、総会の会場には、教区総会の議員たちを始め、
 准允式・按手礼式のためだけに、来られた方たちもおられる。
 
 資格を授かる方たちが所属する、
 それぞれの教会の方や、ご家族の方たちもおられる。
 たくさんの方たちがこの場に参列された。
 下は会場の写真。
 
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 下の写真は、式の最中に礼拝堂に降り立つ、窓からの光。
 この光の下での式中に、四人の方々がそれぞれに所信を語られた。
 
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空からの光、天からの光が、
 
教会という窓を通して…
 
 四人のところに降り注ぐ。
 
 そして、参列する一人ひとりの上にも。
 
 
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 四人の方が、この式によって資格を得た。
 それぞれの方が、式の中で、
 ご自分の、これまでの歩みを、
 簡潔に語ってくださった(所信表明として)。
 
 そのことを通して、
 人の思いを越えて働く、神様の恵みについて、
 一人ひとりが自分の言葉で語ってくださった。
 
 今まで生きてきた、自分の道においての、神の恵み。
 これから生きていく、自分の道においての、神への信頼。
 いま仕えている教会や学校のこと、などなど。
 
 それらを、自分自身の言葉で語ってくださった。
 その人でなければ、語ることのできない、恵みを。
 
 語ってくださって、ありがとうございます。
 そして、出発の地に着かれたこと、本当におめでとうございます。
 
 式で歌った、讃美歌の歌詞が印象的だった。
 
 主よ、わたしたちの主よ  示された平和の道に
 いま、出かけます     あなたのみむねに従うために
                 (讃美歌21─92 3番歌詞)
 
 いま、出かけます…♪
 
 
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 京北教会の、牧師住居玄関のアイビー。
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 2011年 5月1日(日)京北教会 礼拝説教(要旨)
 
 聖書箇所 ルカによる福音書 24章 13~27節(新共同訳p.160
 
 
 説教題 「伝道の神様」
 
 イエス・キリストが十字架の上で命を失ったあと。
 二人の弟子はエマオという村へと、逃げるように旅立ちました。
 その逃避行は、かっこわるく惨めな旅でありました。
 今までの希望が、ある日一瞬にして壊れたあとに…
 彼らはただ歩いていくしかなかったのです。
 
 いま、彼らにとって何が必要なのでしょう。
 希望でしょうか? 
 いいえ、いま、このとき彼らは「希望」なんて、いりませんでした。
 
 なぜならば、何か新しい希望が与えられたとしたら…
 彼らは、それを、今まで自分たちが信じていた希望(イエス・キリスト
 …と比べてしまったでしょう。
 
 これから、新しく素晴らしいことが起こったとしても…、
 それは、過去に失ったものの記憶をよみがえらせる…
 そして、それと「新しい希望」を、比較させてしまう…。
 そういう意味で、希望というものは、ときに罪なものです。
 
 人間の心は難しいものです。
 絶望することがあっても…天には神様がおられるのだから…、
 きっとまた、あなたたちは新しい人生へと出発できるはず…
 などと言われても…
 
 それなら、今までの、過去の、自分は何だったのだろう?
 と考え出すと、またあれこれと悩みが深まっていくのです。
 そういう意味で、「神様」という言葉もまた、
 ときには罪なものです。
 
 エマオへと歩く二人組のイエスの弟子たちは…
 もはや、「イエスの弟子」たちというよりも…
 「元・イエスの弟子」たちといったほうがいいかもしれません。
  なぜなら、イエスは十字架の上で死なれて、もういないからです。
 
 全てのことは過ぎ去って、ただぬけがらのような自分たちが…
 歩いているだけ。
 
 そんな二人組の旅に、誰か一人がついてきていました。
 その人はいつのまにか、「元・イエスの弟子」たちの旅に…
 よりそうように歩いてきて…
 話しかけてきました。
 
 その人は二人にとって、見知らぬ人でした。
 仮に「通行人Aさん」としておきましょう。
 通行人Aさんは、陰鬱な話を互いにしながら歩いている二人組に、
 一緒に歩きながら話しかけました。
 
 「あなたたちは何をそんなに暗い顔をして話し合っているのですか」。
 
 なんと、場の空気のよめない人か、この通行人Aさんは!
 いま、この二人組は、陰鬱な気持ちで歩いているのです。
 見知らぬ誰かさんと、旅で知り合って…
 おしゃべりする気持ちなどないのです。
 
 しかし、二人は、この通行人Aさんに…、
 ひとつ、今までの事の顛末を知らせてやろう、と話し出しました。
 
 イエスの思い出…(いっぱいあります)…
 十字架の上で死なれた、理不尽さ…(受けとめられないイエスの死)…
 残された自分たちの窮状…(俺たちの気持ちがわかるか?)…
 
 なんやらかんやらと…
 二人組は通行人Aさんに向かって…
 イエス・キリストについて、語り出したのです。
 さて、そのあと通行人Aさんから帰ってきた言葉は…
 なんだったでしょうか。
 
 「こういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
 
 そして、聖書に書かれている事柄を…
 最初から順々と説く言葉が、そのあとに続きました。
 
 二人組の「元・イエスの弟子」たちにとって…、
 あっけにとられる時間が続きました。
 
 二人は、通行人Aさんの話を聞きながら歩いて行きます。
 やがて夕暮れどきになり、彼らは泊まる場所を探して…
 町に入っていきます。
 そこで二人は、なおも先へ行こうとした通行人Aさんをひきとめ…
 一緒に泊まっていただくことをお願いしました。
 そのようになりました。
 
 そして、彼ら三人が一緒になって夕食をとっていたとき…
 通行人Aさんは、二人のためにパンをさいてくれました。
 その、彼がパンをさく様子を見たときに…
 初めて二人組の「元・イエスの弟子」たちは…
 そこにいらっしゃるのが、イエスだとわかった。
 そのように、福音書に記されています。
 
 そして、その、わかった瞬間に…
 「彼らの目が開け、イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった。」
 そう書かれています。
 
 彼らはまぼろしを見ていたのでしょうか。
 そうかもしれません。
 いま、目の前にはイエスはいないのですから。
 
 けれども、目の前にはイエスはいないけれども…、
 さかれたパンが二人の前には置かれていました。
 そのパンを食べながら、二人は話し合ったのです。
 
 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、
 私たちの心は燃えていたではないか。」
 
 このあと、彼ら二人組は…、
 「元・イエスの弟子」たちから、「イエスの弟子」へと変わりました。
 
 「元・何々の人」という言い方は、普通に使う言葉です。
 しかし、ときにはあまり快くない言葉になるときがあります。
 それは、元はこんなことをしていた嫌な人、とか…
 元はあんなに素晴らしかったのに、今はなんだ…
 というような、その人の過去に基づいて、今のその人を…
 なじる意味を持つことがあるからです。
 
 「元・イエスの弟子」という言葉も、いい言葉ではありませんね。
 触れられたくない過去を暗示するうしろめたい言葉です。
 
 けれども彼らは、そのような、「元・イエスの弟子」ということ…
  ―それこそが、まさに、彼らのそれまでの陰鬱さの原因─
 …を捨てたのです。
 
 新しい誰かの弟子になったのではありません。
 そうではなくて、もういちどイエスの弟子にしていただいたのです。
 
 思えば、最初、イエスの弟子になったときに、彼らは自らが…
 なろうと志願してなったわけではありません。
 イエスが「私に従ってきなさい」と言われたのです。
 それと同じ意味のことがもう一度起こったのです。
  一度目に伝道していただいたときと、全く同じ意味のことが、
 弟子たちに起こったのです。
 
 この二人組がエマオの村へと逃げていく、陰鬱な旅の途中で出会った、
 この不思議な通行人Aさんは…、
 いわば「伝道の神様」でした。
 
 それは、復活なされたイエス・キリストであったと…
 はっきりと福音書は告げているのでありますが…
 それは同時にこの二人組にとっては…
 「伝道の神様」と出会うことでした。
 
 うん? 「伝道の神様」?
 
 これって、不思議な響きの言葉かもしれませんね。
 
 最近とてもヒットした歌に「トイレの神様」って歌がありました。
 (トイレにはそれはそれはきれいな女神様がいて、トイレをきれいに掃除してくれたら、とってもべっぴんさんにしてくれる、だからトイレをきれいに掃除しなさい、とおばあちゃんが孫娘に教えてくれた…というような内容の歌詞だったかと思います)
 
 それは神様についての歌ではなくて、ユーモアと賢さのある、優しくて暖かいおばあちゃんについての思い出の歌です。とてもいい歌です。
 
 「伝道の神様」は、トイレの神様と違って…
 ひとつのところだけにいる神様ではありません。
 どこにでも来てくださいます。
 そして、信じるべきことが何であるかを教えてくれます。
 
 気落ちした陰鬱な時間にやってきて…
 思いもかけない言葉をかけてくれます。
 それが、十字架の上で死なれたイエス・キリストであり…
 復活なされたイエス・キリストです。
 
 元・イエスの弟子たちは、イエスと出会って…
 希望という言葉も、神様という言葉も…
 その本当の意味が自分たちの中に戻ってきたのでした。
 
  「伝道の神様」に出会った彼らはやがて、また旅に出ます。
 本当にその旅に出るためには、
 ペンテコステ使徒言行録2章)の日のときまで…
 しばらく待たなければなりませんでしたが…
 彼らにはすでに、この最初のイースター(復活日)のときに…
 確信が芽生えていました。
 
 もはや「元・イエスの弟子」ではない。
 いま、イエスの弟子なのだと。
 
 そして、俺たち、また旅にでるんだ、と…。
 
 
                           (以上)
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 公園にしげる木の葉の向こうに京北教会が見える。
 
 春なんだけれども、夏っぽい写真。
 
 夏がまた来る。そう遠くなく。
 
 教会にも。