京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

「はるか彼方に約束がある」(使徒言行録1章よりの説教)

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木洩れ日の光があたっている教会堂。
雨の日、曇りの日が続く日の間に、こんな日もある。

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アイビーの葉とツツジの花。
花の色はそんなに鮮やかではないが、しっかりと開いて咲く。
牧師住居の玄関わきにて。

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紫陽花(アジサイ)の花のつぼみが色づいてきている。
梅雨に入る知らせを告げながら。


来週、6月12日(日)はペンテコステ聖霊降臨日)の礼拝。
神様が、風のように、イエスの弟子達に働きかけてくださった日。
そうして、教会を授けてくださった日。

それは、聖書の使徒言行録にある物語から来ている記念日だけれども、
今も、教会には神様自らが風となって働かれる。

私たち一人ひとりに、風のようにやってくるその姿を─

聖霊(せいれい)、という呼び方で聖書は表した。

教会を、生きて働く信仰の場所としてくださる、「風の姿の神様」。

私たちはその風に押されて、一歩前へ出る。

そのことを願おう。

風に吹かれるこの白い花のように。

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写真の花は白花タツナミソウと思われる。

 6月5日(日)聖日礼拝 出席20名

 聖書 使徒言行録 1章1~5節
「あなたがたはまもなく、聖霊による洗礼を授けられるから…」(5節)

 説教題「はるか彼方に約束がある」

 説教要旨

 イエスは天に召されていく前に、弟子達に、やがて天から聖霊(せいれい)があなたたちにやってくるから、それまで待つようにと教えられた。
 聖霊がやってくるとき、そこから、あなたたちは力を与えられて、宣教し、教会を形作るのだ、ということである。
 その後、そのようになったことが、聖書の使徒言行録には書かれている。

 聖霊とは、神様御自身のことであり、それは見えざる姿であり、風のように私たちにやってきて、風のように私たちを守ってくださる。そして、歩むべき道へと導き、語るべき言葉を与えてくださるという。

 それは、はるか昔の神話のようなことではなくて、現在に至るまで続いている約束であり、聖霊は今も教会に与えられてきたし、これからも与えられる。

 聖霊があるから、神様の守りがいつも私たち一人ひとりと共にある。


 けれども、私たちは、皆様は、そのことを信じることができるだろうか。

 信仰とはなかなか難しいものだと感じることがある。
 自分の心の中では、「聖書が教えていることって、だいたいこんな感じのことなのかな」と、おぼろげではあってもイメージすることがあって、なんとなく自分の信じる方向がわかってくるような気がすることがある。
 けれども、そのイメージについて、人と話してみたら、どうなるだろう。

 多くの場合は、うまく人に話せないどころか、人から一笑にふされたり、矛盾をつかれたりして、しどろもどろになってしまう私たちである。そうして、信仰って難しいのかな、私はまだわかってないのかな、無理なのかな、とも思うし、いやいやキリスト教そのものが矛盾なのだなぁなどと考えてしまうと、信仰の道はそこでふさがれてしまったような気にもなる。

 聖霊ということも、ばくぜんとならイメージできるけど、はっきりとそれを信じるというのは、難しいことかもしれない。

 使徒言行録には、イエスは天に召されて弟子達の前から去ったことが書いてある。そして、いつかまたもういちどイエスが私たちのところへやってくるとも書いてある。聖霊とは、その間の期間にあって、見えざる姿のイエスが私たちと終わりまでいつも共にいてくださる、という神様からの約束を果たす力として描写されている。

 それは、美しいイメージにも思えるかもしれないし、また荒唐無稽なお話に思えるかもしれない。そして、どっちかと言えば、後者のほうが人として普通の感覚かもしれない…。では、そんな普通の感覚で、聖書に信仰を見いだすとしたらどうしたらいいのだろうか。

 そのことについて考えた人の一人に、ルドルフ・ブルトマンという、20世紀のドイツの聖書学者がいる。ブルトマンは、聖書の中にあらわれる世界観、歴史観について研究して、聖書の物語は、それが書かれた時代の人々の世界観、歴史観を前提としていることに注目した。すなわち、世界というものが、天と地と地下の三層で構成されているとして、神からの救いは天から降りてきて人を地の世界から救うものとして考えられている。そして、人間の歴史はいつか終わりを告げて、神の国が来る…。

 そういう世界観・歴史観を前提として、初代教会の人々の信仰を理解するときに、聖書の物語は、荒唐無稽なものではなく、実に人々の「実感」にぴったりあった物語であったことをブルトマンは明らかにした。つまり、イエスが天に召されたこと(過去)、そして天から聖霊が降りてきて私たちを救ってくださること(今の時代)、いつか人間の歴史が終焉して、世界の全てのものが神の愛によって新しくされる神の国が来たること(将来)…。それらは全て、聖書の中の世界観に関係することであり、人々の活き活きとした生活実感に訴えるものがあったのである。


 とはいえ、それは聖書の書かれた時代の世界観であって、現代人がそれをまるごと信じるわけにはいかないだろう。そう考えると、結局、私たちはどうしたらいいのだろう? 何を信じたらいいのだろうか? 

 世界観といえば、ちょっと話はそれてしまうが、古代インドの人たちが世界というものをどのように理解していたかについて、歴史図鑑か何かの本を読んだことを思い出す。それは、人間の生きている地上の世界の下には、巨大な亀がいて、その亀の甲羅の上に地上があるというのだ。その亀の下には4匹のこれまた巨大な象がいて、その上に亀が乗っている。その下にはこれまた巨大なへびがいて…と、なんだか馬鹿馬鹿しくなってくるような「古代のインドの人たちの世界観」の一つが、子ども向けに、絵でわかりやすく描かれていた図鑑だった。

 そのような世界観の絵は、馬鹿馬鹿しい、愚かだとも言えよう。しかし、古代のインドの人たちは、愚かだったから、そのように亀だの象だのに支えられている地上という世界観を信じていたのだろうか。そうではあるまい。世界がどんなふうに出来ているかなんて、誰も知ることのできないことだったのである。そして、そのことについて、誰も本当には説明することができないから、そんなふうに説明することに「してみました」というのが、そこにある説明の仕方なのであろう。

 現代人の大人の目には愚かに見えるかもしれない世界観も、実は知恵深いものである。というのは、「世界とはどんなふうにできているのか」という質問には、本当は誰も答えられないからである。科学の発達した現代に生きている私たちは、地球や宇宙の構造について、それらを「世界」と考えて、古代人よりも賢い説明をすることはできるかもしれない。

 けれども、それは地質学とか天文学とかの知識のつなぎあわせであって、本当の答えにはならない。なぜなら、「世界とはどんなふうにできているのですか」という質問をするときには、実は私たちは、「自分を取り巻いている世界の意味は何ですか」ということを問うているのであり、それに対する完全な答えはどこにも無いからである。

 科学の知識は増えても、自分の生きている「今、ここ」における世界の意味を知ることができずに苦悩する、無能な現代人と違って、古代の人間は、世界の意味ということを神話の中で表現し、その中で疑問を解決してきた。それを愚かであるとは言えまい。古代人の世界観は、ある意味で、世界についての真剣な疑問を、荒唐無稽な物語によって「はぐらかす」ものであった。

 それは、人間が本来すべきことは、世界がどのように出来ているかを知ることではなく、この現実世界に飛び込んで自ら生きていくことだからである。

 世界についての哲学的な悩みについて、人はどこかで割り切らなければならないはずだ。いつまでも「世界」について考え込むのではなくて、「今、ここ」の現実の中に生きる意味、生きる力を見いだしていかなくては、人は生きていけないからだ。そのための割り切りを生み出すものの一つが、知恵としての世界観なのであり、それは科学的な意味での世界観ではない。

 神話的な世界観には、そのようにして、人の疑問をはぐらかすことによって、かえって、人を現実世界へと押し出していく力がある。そして、聖書の物語の背景となっている世界観、(一見、荒唐無稽かもしれない)その世界観は、まさにこの、「人が生きるための世界観」、知恵ある世界観であって、科学によって探求される世界観ではない。

 だから、聖書の内容を厳密に追求していけば、何か人生の真理がわかる…というものでは、必ずしもない。むしろ、聖書を読んでも、その物語の内容や、読み方によって、読み手の気持ちが、はぐらかされてしまうことだって多い。けれども…そうやって完璧な答えを与えてくれないからこそ、聖書は神様の言葉に「なる」のではないだろうか。

 さて、ここで元に戻って、私たちは、聖書に記されているような、聖霊の働きというものを、どのように信じたらよいのだろうか。神様の見えざる姿としての、風のような、聖霊の働きが本当にあると信じることのできる根拠とは何だろうか?

 その根拠は、はるか彼方の、天の神様のもとにある、としておこう。すなわち、その根拠は私たちの知り得るものではないということである。

 こんな答えでは、誰も納得はしてくれまいと思う。しかし、私たちは聖書の伝える信仰というものを、信じようとするときに、「信じることのできる根拠がどこにあるのか」ということについては、最終的には「それは、神様のもとにしかない」といわざるをえない。

 それは、不十分すぎる答えである。けれども、考えてくださらないだろうか。もしも、聖霊の働きが本当にあるのだということを証明する、何かの根拠があるとしたら、私たちはその根拠について、あれこれといじりまわして、疑ってかかって、おもちゃにして、そうして手垢のつくまでいじってぼろぼろにしてしまうのではないだろうか? 「これも古代人の一つの世界観だ」とかなんとか言いながら…。

 そうやって、自分にとって本当は大切かもしれないものを、自分自身で壊してしまうのは、いったい、なぜだろうか?

 聖霊の働きを信じる生き方の根拠は、はるか彼方にある神様の約束である。そのように言うことにしよう。私たちの手の届かない所に、神様の約束がしっかりとあるのだ。そこでこそ、神様が一人ひとりの人間を惜しむように愛しておられるという、恵みの約束が完全に守られているのだ。

 そんな言い方に納得できない方にも、知ってほしい。私たちが「今、ここ」で命をもって生きていることの意味は何だろう。あるいは、いつか死んでいくことの意味は何だろう。さらに、不慮の災害や理不尽な事によって死なれた人たちの命の意味は何だろう。

 これらの疑問について、人は、どのようにでも論じることができる。
 しかし、論じれば論じるほどに虚しくなっていくとしたら、論じることで私たちが、命をおもちゃにしていじくっているからである。人間にとって、本当に大切なことの意味(たとえば、人間の命の意味)の根拠は、人間の手の届かない、はるか彼方におかれている。そこで神様の約束によって守られている。無意味に見える死に方をした人の命は、決して無意味であったのではないと保証するのは、神だけであって、人間では無い。

 そのように、神様の約束によって根拠を与えられ、はるか彼方の人間の手の届かないところにあって守られている真実を、きっと人間は必要としている。

 聖霊の働き、それは、見えざる神様の、風のような働きかけ。
 生きることには意味がある。
 生きよ、生きよ、生きよ。
 神がいるのだから、世界のために悩まずに、今、ここで、生きよ。
 聖霊がそう私たち一人ひとりに働きかける。
 その根拠は、はるか彼方にある神様の約束。
 イエスは、その約束を告げてくださったのである。

                              (以上)

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教会の生け垣のミニチュア・バラ。

この写真は少し前に撮影したもの。

充分に咲いて、次の季節の花に、ときを譲っていった。


季節ごとに、咲く花は違う。

そうなのだから…

教会の暦が変わるときに、私たちの心にも、新しい花が咲いていいはず。