京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

1月19日(日)のこと

 <きょうほく・きょうかい>
「虹の架かる教会」京北教会ブログ
2014.1.19
   「1月19日(日)のこと」

本日の記事は、
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日本キリスト教団 京北(きょうほく)教会

京都市 左京区 下鴨 神殿町 17-3
京都市地下鉄「北山」駅を下車、徒歩約7分

京北教会のホームページを、
ブログとは別に作っていますので、
よろしければ、どうぞご覧下さい!

ホームページのアドレス







 
 本日のブログはここからです。

「1月19日(日)のこと」





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今朝起きると、雪がありました。
教会庭。

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教会の屋根に雪が積もっています。
これは礼拝後の撮影。

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午後、雪はどんどん消えていきますが、
よく晴れた昼の光のもとでの雪も綺麗でした。






2014年 1月19日(日) 京北教会 聖日礼拝

  聖書 創世記 4章 1~19節
  説教 「どこにいるのか」
  讃美歌21 425「こすずめもくじらも」
        412「昔、主イェスの」
        493「いつくしみ深い」

  出席者数 34名

  礼拝後 ・教会新年会(おぜんざい)

   美味しいおぜんざいを準備いただき、
   ありがとうございました。
   おかわりする方もたくさんおられました。
   
   一段落した後に、簡単に新年会。
   礼拝後にある方から、「みんなで自己紹介しましょう」と、
   提案いただいたので、それはいいとすることにしました。
   この1年のなか、一緒に礼拝する皆様が増えました。
   互いのお名前を知らないこともあり、
   今日はいい機会でした。

   それぞれのお名前と自己紹介、
   近況や思い出、
   今年のお正月をどんなふうに過ごしたか、
   皆様にご自由にお話いただきました。
   初めて聞くお話も多く、「へー!」と驚いたり、
   笑ったり。

   おぜんざいをお腹に収めて、
   お話は心に収めて、最後に讃美歌「みめぐみゆたけき」を、
   みんなで歌って終わりました。新島八重さんの、
   愛唱讃美歌とのこと。

   2014年を迎えた皆様の、新しい一歩は、
   それぞれに多彩でした。

   ご健康、ご家族のこと、これからの展望、
   ハプニング、思い出……。
   いろいろなお話を聞かせていただき、
   皆様ありがとうございました。


   教会では、「お名前は何でしたっけ」と、
   相手に何度もお尋ねすることは失礼ではありません。

   たくさんの方のお名前をそうすぐには覚えられない、
   それが普通です。何度だって尋ねていただいて、
   その人のことを覚えることができたら幸いです。

   世間一般の「人づきあい」とは違う、
   教会の「主にある交わり」は、
   ざっくばらんで暖かい。
   「繰り返し」と「やりなおし」ができます。

   イエス様がおられるのですから、何事も、
   そんなに気にせずに、落ち着いていきましょう。





       週報掲載 <宣教のことば>
 
 旧約聖書の「創世記」にある話です。
 最初の人、アダムとエバが知恵の木の実を食べたために、
 神様によってエデンの園から追放された話は、
 物語として知られています。

 この物語について、人間の罪深さ、
 人間の知恵の意味、夫婦や家族の関係など、
 いろいろな解釈をともなって語られることがあります。

 様々な読み方ができることは、聖書の楽しさであり、
 人間の想像力をたくましくすることは、
 絵画や文学など芸術にもつながる素晴らしいことです。

 しかし、それだけでは、
 聖書に記された、この物語を、
 ただ単に「おもしろおかしい」話として、
 読んでしまわないでしょうか。 

 人間は、神の前では決して、
 「神のような存在」になれないことを、
 物語は示しています。

 神様の恵みを、真っ直ぐな気持ちで受け取るのではなく、
 己の利得としてこっそり奪い取り、
 その責任を他者になすりつける姿に、
 どこかの誰かではなく、
 「自分」の孤独な姿を見いだせるのではありませんか。

 そしてその自分に、それでも、
 なお神のまなざしが注がれている、
 その深い恵みに驚くよりほかありません。



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  皆様が帰られたあとの玄関から門を撮りました。
 もうずいぶん雪は消えています。

  今日は、写真を撮り忘れることが多く、
 教会新年会の写真はありません。



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 教会玄関からの光景。

 



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   外に出ると、帰っていく皆さんの歩く姿がありました。
 寒い日に、体調を整えて、皆様は来られました。
 
 風邪で休まれる方からの連絡も複数ありました。
 こういう雪の日、寒い日、私たちは……、
 どこにいても神様につながって暖かくしていたいと、
 そのことを願いたいです。