京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

<京都南部地区総会(2015年度 於 室町教会)を訪れて>

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──京都南部地区総会
(2015年度)を訪れて──
 
2016年 2月21日(日)14:00〜17:00

於 室町教会
 
 京都南部地区の47教会・伝道所の代表が集いました。
 


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(上2枚の写真は昨年6月頃撮影)


長い歴史を持つ教会。


戦前は日本基督教会(長老派)に属する教会でした。

その時代からの教会名板が、今も入口に掛けられています。

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    以前の室町教会を描いた絵が、壁に掛けられています。


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   室町教会は、教区・地区・地域活動など、

様々に
会場を提供してくださっています。感謝です。
 
 

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 上の2枚の写真は1月、

教区宣教部の「宣教セミナー」での写真。

 

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 さて、本日の京都南部地区総会。


 開会の午後2時が近づき、だんだんと人が集まってきます。

 この日、開会時で67名出席。その後も増えたので、

 70名以上が集いました。最近では一番多い出席数です。

 礼拝堂が一杯になりました。


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 端正で明るい礼拝堂。

 シンプルで、窓の色彩の明るさが素晴らしい。
 
 
 
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 総会では、活動報告や会計報告などが、

 粛々と進みました。

 伝道部、教育部、社会部、教師部、広報部、音楽部、

 信徒部、女性部、青年部などの各部からの報告を受けました。

 一つひとつ、関わる方々のご苦労を思いつつ、聞きました。



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 休憩をはさみ、いくつかの議論を経て、5時に終わりました。

 地区長はじめ、地区のスタッフの皆様、

 会場の室町教会の皆様、お世話になりました。

 感謝申し上げます。


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 終わって外に出ると、寒くなり始めていました。

 皆様それぞれの教会へと帰ります。



 どなたも、お疲れさまでした。

 また明日から、ぼちぼち、それぞれに、

 神様に導かれていきましょう。


 無理なく、少しずつ考えながら、

 どの教会も、それぞれの一歩一歩を。



 わたしたちの京北教会も、小さな一歩を、
 
 また来週に。


















(以下は、京北教会の日常を報告するブログ記事です)



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 2016年 2月21日(日) 京北教会 聖日礼拝


  聖書 ヨハネによる福音書 5章 6〜18節

  説教 「休ませる働き」

  讃美歌21   11「感謝に満ちて」

        300「十字架のもとに」

        403「聞けよ、愛と真理の」

  
  出席者数 26名

        ここ数週間、風邪で欠席される方々が続出です。
      
        皆様のご快復をお祈りします。
    
       
  礼拝後 ・お茶のとき

        長く治療中の方を覚えて、

        お見舞いカードを出しました。

        ご無理のないとき、また礼拝にいらして下さい。

 


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 今日の礼拝堂の花として、学校の卒業式での花を、

 教会に届けてくださった方がありました。感謝です!

 今年初めて見る「桜」です。集会室にも飾りました。

 以前、山形県で作っていると聞きました。

 貴重な花をいただき、ありがとうございます。

 
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風邪で休まれている方が、

お茶のときのために、

ロールケーキを焼いてくださいました。

頭が下がります。感謝。

みんなでパクパク美味しくいただきました。

すみやかなご快復を祈ります。



 


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       週報掲載 「宣教のことば」


 エスはお答えになった。

 「わたしの父は今もなお働いておられる。

  だから、わたしも働くのだ。」


            ヨハネによる福音書 5章17節


 そのころ、週に一度の安息日(あんそくび)は、

 神を礼拝する日なので、

 一切の仕事を休むことが決まりでした。


 けれども、主イエス・キリストは、

 その決まりを破り、人の病を安息日にいやしたことで、

 律法学者など人々から批判されます。


 人々の批判は、やがて、

 イエスを十字架上での死へと追いやる、

 憎しみの力となっていきました。


 それは、イエスが単に律法を破ったからではなくて、

 そのことに関連して、イエスが天の神様を、

 自らの「父」と呼ぶことによって、

 「御自分を神と等しい者とされた」(18節)ことが、

 問題だったからと福音書は記しています。

 
 つまりは、神への「不敬」ということでしょう。


 しかし、主イエスの、

 ──わたしの父は今もなお働いておられる。

   だから、わたしも働くのだ──

 という言葉は、決して、

 神への不敬でもなく、傲慢な自信過剰の言葉でもありません。


 神様は、ただ礼拝されているだけの存在ではなく、

 自らを無にして働かれるから、

 わたしも自らを無にして働く、ということです。

 
 私たちが働くのは、自分が偉いからでもなく、

 能力があるからでもありません。

 神様が働いてくださるからなのです。


 

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