京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

「桜の花咲くころには」(詩編1編よりの説教)

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 新年あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いいたします。

 写真は講壇に今日活けられた、新年の礼拝のためのお花。

 お花は、担当の方が自宅の庭のものを、毎週の礼拝のために、その時々の礼拝の趣旨(教会歴や季節、記念日など)に合わせて活けてくださる。

 今日も、新年にふさわしく、きりっと活けてくださった。感謝。

 今日、1月2日は、2011年を迎えて初めての日曜日の礼拝の日。

 以下、今日の礼拝の聖書箇所と、礼拝説教を掲載。

(説教とは、礼拝の中での聖書のお話)

 今日の礼拝の聖書箇所の「詩編」とは、旧約聖書の時代に、礼拝の中で会衆一同でうたっていた信仰の詩を集めたもの。

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  旧約聖書 詩編1編

 「いかに幸いなことか。
 神に逆らう者の計らいにしたがって歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることは全て繁栄をもたらす。
 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びにいたる。」
………………………………………………………………………………………                                     2011年1月2日 新年礼拝説教 (題)「桜の花咲くころには」

 大晦日に何十年ぶりかの大雪が京都にも降った。

 このような気候の変化に出会うと私たちは、いまがどんな「とき」であるかを注意深く考える。そして、うかつに外に出てはいけないとか、天候関係のニュースに注意しようなどと考え、家族親族や知人友人のことを気遣ったりもする。

 大雪のような、自然の気候がもたらす困難は、自分一人だけではなくみんなに訪れるものなので、みんなで力を合わせて対処することも、ある程度の範囲内のことであればできる。

 しかし、自分一人が直面するような人生の困難な課題もある。そうした事態に遭遇したときにもまた、私たちは、この直面している今のときが、自分にとってどんな「とき」であるかを注意深く考える。

 神を信じて歩もうとする人は、こうした様々な「とき」に出会うなかで、いまがどういう「とき」であるかを自覚して、そして神から与えられる解決を切望する。

 神から与えられる知恵や力によって、その「とき」を乗り切っていくためである。

 では、どうしたらその知恵と力が与えられるのだろうか。

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 旧約聖書詩編1編には、「いかに幸いなことか」「主の教えを愛し、昼も夜もそれを口ずさむ人」「その人は流れのほとりに植えられた木」「ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない」と記されている。

 ここには主(神)の教え(聖書の言葉)を愛して、暗誦して、毎日いつも口ずさんでいる人の姿が描かれている。
 
 しかし、いまここで礼拝している私たちは、この詩編1編に描かれている人のように聖書の言葉を「昼も夜も口ずさむ人」だろうか。おそらくそうではない。すると私たちはどうなるのか。

 また、読みながらどうしても気になることだが、詩編1編の前半には「罪ある者の道」や「傲慢な者」という言葉があり、後半には「神に逆らう者は風に吹き飛ばされるもみ殻のよう」、そして「罪ある者は正しい人の集まりに堪えられない」とある。

 私たちは、もしも二者択一で、この詩編1編における正しい人と悪しき人のどちらが自分だろうと考えてみたとき、自分は後者の悪しき人なのではと考えてしまうのではないか。

 それは自らを、主の教えを昼も夜も口ずさむほどの人間ではないと考えざるをえないからである。

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 実際には、旧約聖書の中で「律法」として記された、信仰と生活に関わるたくさんの規定の中には、罪の悔い改めの規定や、私情に流されないような公平な罰則や、罪をおかした人への人道的な保護などの規定などがある。それゆえに、「聖書は単純な善と悪の二分法で人間を切り捨てている」というわけではない。

 とはいえ、聖書の中に出てくる二者択一的な表現、人間を信仰のものさしではかっているかのように見える表現は、どうしても私たちにとって気になることではないだろうか。

 そのように思うのは、現実の社会の中においては、人間を二つに分けて評価して、成功する人と失敗する人、正しい人と悪人、と切り分けることができないからである。そこまで人間は単純な存在ではない。

 さらに、悪や罪と言われる事を見るときに私たちは、そのなかに「人間であるがゆえに、誰でもが持っている深い闇」を感じることがある。

 そのとき、私たちは悪や罪と言われる問題を、単純に裁くことができない気持ちになる。

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 すると結局、詩編1編は私たちに何を伝えているのだろうか。

 とにかく聖書を、日々暗誦して口ずさみましょうというお勧めか。

 それとも、神を信じる者は幸せになるが、そうでない人は悪人なのでみんな滅びる、という単純な価値観か。

 どちらも、私たちが受け入れがたい、理解しがたいものである…。

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 そこで、主の教え(聖書の言葉)を「昼も夜も口ずさむ」ということについて考えてみたい。この箇所を一読すると、覚えて口ずさむということ、つまり暗記・暗誦する努力が賞賛されているようにも思える。そうならば、私たちはそんな暗誦はできないから、関係ないという気にもなる。

 けれども待ってほしい。

 私たちが日々の生活の中で口ずさむことがあるものといえば何だろう。それは、自分がなじんでいる何かの「歌」ではないだろうか。

 そしてその歌を口ずさむとき、歌の最後のしめくくりからとか、急に意味もなくまん中からとか、自分にとってなじんでいる順番を無視してバラバラに歌ったりすることがあるだろうか。

  多くの場合は、1番の最初の出だしから歌うか、あるいはもっとも心に残るメロディ・歌詞の繰り返しのところあたりから、まず口ずさんでみるのではないだろうか。

 なじんでいる歌だからこそ、出だしか、もっとも心に残るところの歌詞を口ずさみはじめて、そこから順々に流れるように、覚えている範囲で自然に歌っていくことが多いのではないだろうか。

 主の教え(聖書の言葉)を昼も夜も口ずさむ、ということも、ただ知識の羅列のように聖書の名言をバラバラにつぶやいていくということではなく、「出だし」か「一番心に残る」言葉から口ずさむのではないだろうか。

 では、その最初の言葉とはなんだろう。

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 はっきりと、これだと決まっている言葉が何かあるとは言えない。

 しかし「主の教え」と表現されている言葉を、旧約聖書の中にたくさん記された「律法」のことであると解釈するならば、その一番最初の言葉は、律法の最初とされるモーセ十戒と考えてもおかしくない。

 では、その一番始めにはなんと書いてあるだろうか…? 

 十戒にはまず前文があり、歴史が語られる。
 そして、それをふまえて記された十戒の第一戒は、「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」である。

 悪しき力の抑圧によって奴隷とされていた日々から、あなたを解放してくださった、まことの神だけを神とせよということである。

 それは言葉を代えて言えば、あなたが知っている、あなたの神を愛せよということである。

 あなたを愛してくれている、あなたのまことの神だけを、あなたはあなたの神とせよということである。

 また新約聖書では、数ある律法の中で、「もっとも重要な律法」とは何であるのかと人々から尋ねられたときに、イエス・キリストは、次の二つのことを答えてくださった。

 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい」。

 「隣人を自分のように愛しなさい」。



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 旧約、新約の両方を通して、私たちが聖書の教えに関して、その中での一番初めの「出だし」にあたる言葉として口ずさむとしたら、今あげたような、神様から人へと伝えられる確かなる愛の関係を表す言葉ではないだろうか。

 それを口ずさむことは、神と私の間にある愛の確認であり、そこからふくらむ神への希望(そこには罪のゆるしをも含む)を自分の口で言葉にするということである。

 そのように考えてみると、詩編1編にあるような、「主の教えを昼も夜も口ずさむ」ということは、一生懸命に暗記した言葉を機械的に羅列してつぶやくということではなく、日頃からなじんでいる歌を、その1番の歌詞の最初の出だしから口ずさむように、大切な言葉を順々に口ずさんでいくことによって、その言葉に何かの「愛を感じる」ということである。

 もっと言えば、その言葉だけではなく、言葉に表れている、神と私の関係をいとおしむ、ということである。

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 そうすることで、私たちは、生きた神様の力が自分の中に働いてくださっていることを実感し、神を愛し、神に感謝し、神と共に歩むことのできる、生きた力がわいてくる。

 それはもはや、何かの価値観というものではない。生きた信仰である。

 聖書を読むことは、社会において善人はどうなる、悪人はどうなる、というような「聖書的な価値観」を得るためだけのものではない。

 神様と愛によってつながっている信仰を得るためのものである。

 そこでイエス・キリストによって罪ゆるされて謙虚に歩むためである。

 そうした、生きた信仰の目をもってもういちど詩編1編を読んでみよう。

 そうすると、「神に逆らう人」「罪ある者」「もみ殻のように吹き飛ばされる」存在、というのは、どこかの悪人のことではなくて、もはや過ぎ去っていった過去の私自身のこととして読めるのである。

 神に逆らって罪に生きていた、古い私は、もみ殻のように吹き飛ばされていったよ、と感謝することができるのである。

 生きた信仰の目を持って読めば、そんな読み方をする道が開かれてくる。聖書を、何かの価値観(ものさし)の書としてではなく、私と神様との生きた関係を表してくれる書として読むからである。

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 こうして詩編1編の学びから、今日の結論が出た。

 けっして、どれだけ長くたくさん聖書の言葉を暗誦できるかが問題なのではない。聖書の言葉をいとおしむ心が、おのずとそれを口ずさむのだ。

 神の恵みや導きと、自分自身が、日常生活の中で出会って、その中で実感される聖書の言葉を楽しく口ずさめるような、「生きた神様と愛でつながった、生きた信仰」こそが、「流れのほとりに植えられた木」「ときが巡り来ればやがて実を結び」といわれる人間の歩み方を生み出すのである。

 自然の世界において、木は実を結ぶ前の時期に、花を咲かせる。
 花の美しさを見ると私たちの心は明るくなる。たとえば春の桜の花は、その季節の雰囲気とあわさって、実に私たちを楽しませてくれる。

 しかし、晦日から元旦にかけて降った大雪がまだ溶けずに残っているほどの寒い今のときには、桜の花咲くころをイメージするのは難しいことかもしれない。

 けれども、神の恵みの大河のそばに生えている木であるならば、時が巡り来ればやがて咲く「花」や、実る「果実」が約束されているのである。それを思えば、私たちはいま、桜の花咲くころを思い描いてもいいはずだ。

 そうであるならば、聖書の言葉を昼も夜も口ずさむ人が、いかに幸いであるか、私たちはわかる。

 その人は、冬のさなかにあっても桜の花咲くころを心に思い描くような気持ちになれる人だからである。

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 私たちも、今の「とき」から次の「とき」へと、神様が歩ませてくださることを信じてみよう。神様の大河のほとりに植えられた木として。

 口ずさんでみよう。

「いかに幸いなことか。

 神にさからう者の計らいに従って歩まず、
 罪ある者の道にとどまらず、
 傲慢な者と共に座らず、

 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。

 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。」

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