京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

「風の音を聴くように」コリント1 13章1~13節による説教

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 この写真は今日のものではなく、先日の雪の日の朝に撮影したもの。

 最近、少し暖かい日が続いている。ありがたい。

 だが、雪の上を歩いた日のことも忘れないでいたい。

 そのときの気持ちも。
 
 
 
 
                                        
 
 以下に、ブログ容量の関係で、日付が違う説教を掲載します。ご容赦ください。
                                        

      2009年 10月18日() 京北教会 永眠者記念礼拝 説教
    
  聖 書 コリント1 13章 1~13節

 「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。

 そしてこの内で最も大いなるものは愛である。」(13節)
 
                                         
 説 教「風の音をきくように」
 
 今日の聖書の箇所は、いろいろに引用される事の多い、
 比較的有名な箇所であると言ってよいでしょう。
 
 どういうときに引用されるかと言えば、
 たとえば結婚式のときに読まれるのです。
 愛というものについて語っている箇所だからです。

 今日は「永眠者記念礼拝」でありますから、
 結婚式のときに読まれるような、おめでたい箇所、
 愛について語っている箇所を選ぶことは、
 少しちぐはぐな感じがするかもしれません。
 
 しかし、この箇所を選びましたのは、理由があります。
 今日この礼拝で記念します、先達の中には、
 ご自分の結婚式のときに、初めて聖書の言葉を聞いた、
 というような方が少なくないのでは、と思ったからです。
 
 さて、聖書には、人の死の意味についての言葉が様々にあります。

 しかし、それは、私たちが、
 人の死に関する言葉を、知識として理解するためではありません。

 そうではなく、 まるで風の音を聞くようにして、
 「そこに何かがあるのかな」、 そこに何かの「力」があるのかな、
 …と、心で感じていくために、聖書の言葉が、そこに存在しています。

 今日、皆様と共に、この聖書の言葉を読むにあたっても、
 共に、神様からの言葉を、
 風の音を聞くようにして、静かに耳をすませて聞いていきましょう。
 

 さて、人の死が示す深い意味というものは、
 理解しがたいものであります。

 たとえば、なぜ、この人は、このときに、
 死ななくてはならなかったのか、という問いへの答えがあるでしょうか。
 それは、誰にとっても、答えられない問いです。

 もちろん、命には限りがありまして、
 あらゆる生き物は、いつか死ぬのですから、人間もいつか死にます。
 それは当たり前のことであります。

 その事実に対して私たちは、 「それが当然」と理解して、
 死の事実の到来に対して、平然と「わかった」と言うことも、
 それが特に何もない日常のときであれば、できるでしょう。
 
 けれども、ついこの間まで、
 一緒に生きてきた人間がいなくなったときなら、どうでしょうか。

 ぽっかりとあく、心の空洞が生じたとき。
 あるいは、悲しみによって、底知れない心の暗闇が生じたとき。

 そんなときには、死の事実が、私たちの心に深く影響します。
 そして、問いが生まれるのです。

 この人の死は、なぜ、今、このときなのですか、と。
  
 こうして生まれる問いは、
 人の死を、当然の事実として、平然と受け入れようとしてきた、
 私たちの日常の心を、ぐらつかせるものがあります。

 …ということは…、すなわち…、
 人の死には「力」がある、ということです。
 
 ──人の死には、私たちを動かす力がある──。

 そこから、考えてみましょう。
 一人の人が死なれたとき、
 もはやその人はこの世にはいませんから、
 何の力も持っていないはずです。

 ところが、何の力も持っていないはずの、
 その人の死によって、
 生きている者の心が動かされるのです。
 これはなぜでしょうか。
 
 それは、聖書が教えていることによれば、
 私たちが、愛によって生きている存在だから、
 そうである、ということであります。
 
 今日の聖書箇所において、教えられているのは、
 ただ一つ愛ということだけであります。

 一番最後の13節には、このように書いてあります。
 「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。
 そしてこの内で最も大いなるものは愛である」。
 
 人にとって最も大切なものは何かと、使徒パウロが、
 信仰を持って、ここで語っているのは、
 愛の大切さということであります。
 
 なぜそんなに愛が大切なのでしょうか。

 それは、愛というものは、
 二つに分かれているものを、本当に、
 一つにする(くっつけるという意味ではなく)ことのできる、
 唯一のものだからであります。

 生きている者と死んでいる者、
 親と子、妻と夫、兄弟、姉妹、
 友人、教会の皆様、その他様々な形で、
 人間は、二つにも三つにも分かれて、
 バラバラに生きているのですが、
 その分かれたものを一つにするのは、
 ただ一つ、愛ということであります。
 
 しかし、人間の愛というものは、様々に揺らぐもの、
 風にそよぐ木の葉のように、揺らぐものでありますから、
 使徒パウロは、ここで、人の愛という、
 人の力の延長線に現れる愛ではなくて、
 神から無償で与えられる、
 神にしかない愛というものを語っています。
 
 「愛は、ねたまない、いらだたない…。」
 そう、今日の聖書箇所には書いてあります。

 こうしたパウロの言葉は、ときに「愛の賛歌」 とも呼ばれます。
 なるほど、結婚式のときなどにふさわしい言葉でしょう。
 けれども、ここでパウロは、そうした何かの雰囲気的なものとしての、
 ロマンチックな気持ちに陶酔しているのではありません。

 今日の箇所は、地中海沿岸にあったコリントという町の
 教会の人たちに向けて、社会的な地位や、
 民族の違いによって、みんなの心が、
 バラバラになっているのではないですかと、
 厳しい言葉を書き連ねたあとに、
 今日の箇所にある、
 愛についての言葉を書いているのです。
 
 だから、これは、一つの問いかけでもあると言えます。
 どういう問いかけか、と言えば…、
 
 「いつか私達は、お互いに死ぬよね。
 そのときに、何が、私達をつないでいてくれると思う?」

 …という意味の、問いかけです。
 
 ここで使徒パウロが、
 コリントの町の人たちに伝えたかったのは、そのことでした。
 
 それと同じく、私達と、今日の礼拝で記念いたします、
 永眠者の方々は、人の愛ではなく、
 神の愛によってつながっているのです。
 そのつながりがある限り、永眠者の方々は、
 消えた方々ではなく、
 神の愛の手における、
 つながりの中に存在しておられる方々です。
 
 永眠者という言葉が示すものは、
 すでに死なれた方々は、
 死によって滅ぼされてしまった方々ではなく、
 神のみこころの中で、復活の日まで、
 眠っておられる方々であるということです。

 聖書の語るところによれば、死者は、
 神のもとにあって眠るということにおいて、
 全ての重荷から解放されて休んでおられます。

 そして、神の定めたときが来るときには、
 復活の命に生かされて、
 一度眠った者が、もういちど、
 神のもとで起きあがらせていただいて、
 神と共に生きるようになる、
 つまり天国において私達は再会する、
 という意味をも含んでいます。
 そうして私達は未来において、つながっていくのです。
  
 これは、もちろん、私たちが生きている、
 今、この世界で起きることではなく、
 神の国としての天国が地上に到来するとき、
 神様がこの世の全てのことを、
 完成させてくださるときに起こることと言ってもいいでしょう。
 
 聖書に記された、神のみもとで起きる、
 復活ということは、とても不思議なことであり、
 私達はそれを、完全に理解することができず、
 説明することもできません。

 聖書に書いてあることって、それが何であるか、
 本当のところはわからない、と考えることが、
 人間としてとる自然な態度でしょう。
 
 しかし、人は死んだらどうなるか、
 死後の世界というものは本当にあるのか、
 ということは、時折いろんな形で、
 マスコミなどで話題に取り上げられます。

 しばしばそれは、人の興味をひきつけ、
 突飛な、また神秘的な何かを感じさせて、
 人の心を刺激してきます。

 けれども、そうしたものに惑わされると、大変です。

 実は、聖書の時代から、そうした神秘的な想像(空想)は、
 人々の話題になり、また、問題になっていました。

 使徒パウロ自身が、聖書の他の箇所で言っています。
 「私達には、示されている以上のことは、
 わからないのだから、無益な論議はやめなさい」と。
 
 教会において、人の死に関して語られるのは、
 受けとめられないものを、
 受けとめられるようにしていくために、
 ギリギリのところで、
 人を絶望から希望へと回復させていく、
 神の知恵です。


 私達は、神秘的な現象や、空想によって救われるのではなく、
 神の知恵、しかも深い神の愛に基づいた、
 神の知恵によって救われるのです。
 なぜなら、私達は愛によって生きているからです。
 
 私達は愛によって生きているがゆえに、
 人の死に際して、愛を失った者として、
 生き方が変わってしまう危険性を、
 私たちは、いつも持っています。

 けれども、神の愛ということが、
 もういちど私達を、すなわち、
 今も生きている者と、今は失われた者を、
 つないでくださいます。

 愛はつながりです。きっと、そうです。
 生と死の間に、距離がものすごくあったとしても、
 神の愛は、その間にあるつながりとして、
 絶えることがありません。

 そして、この神の愛は、力があります。

 風の音を聴くように、静かに耳をすませて、
 神の言葉を聖書から聴いてみましょう。

 私たちには、力が生まれます。
 悲しみの日にも、きっと。
 
                      (説教、以上)