京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

<日本キリスト教団 洛陽教会を訪れて>(2011)

 
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  ──洛陽教会を訪れて──
(2011)

 2011年3月27日(日)午後から、洛陽教会を会場にお借りして、
 日本キリスト教団 京都教区のなかの一つの委員会である、
不登校・ひきこもりの青少年や家族と共に歩む特設委員会」が、
 主催する講演会がありました。

 会場となった日本キリスト教団 洛陽(らくよう)教会について、
 洛陽教会の牧師の許可をいただいて、以下に写真記事を掲載します。
 


 
 今回のブログと別に、洛陽教会を会場にした、
 「京都教区総会2013」の記事は、以下です。https://kyohhokukyohhokukyohhoku.hatenablog.com/entry/15192562
 「京都教区総会2017」の記事は以下です。https://kyohhokukyohhokukyohhoku.hatenablog.com/entry/18500063

 

 上記はともに、それぞれのアドレスを画面上でクリックすると、
 ご覧いただけます。よろしければご覧ください。

 (今回のブログでも、教会外観の写真については、
 2013年や2017年の教区総会などのときなどの、
 季節や天候が違うときの写真を活用しています)
 


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 (京都教区HPによる地図。教区の作成・提供に感謝いたします)


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 左側は「新島会館」。同志社の創設者、新島襄を記念している。

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 新島会館の、さらに左には、「新島旧邸」。
 新島襄新島八重が暮らしていた。
 現在もその当時の様子がそのまま保存されている。

 洛陽教会の土地は、新島の土地で、
 新島八重から購入したもの。
 八重さんに縁の深い教会だ。
 また、新島襄の遺髪も洛陽教会に納められている。
 (新島襄の遺髪は、他に京都教会にも納められている)

 
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 新島旧邸、新島会館と並んで洛陽教会がある。
 礼拝堂の後ろには会議室などの建物がある。
 
   大通りに面して、教会の入り口がある。
 平日の日中も、様々な方々が来られる。

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 広い礼拝堂でのコンサート、音楽練習、
 社会福祉活動など、貸し室の形で多彩に用いられている教会。

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 クリスマスの時期にはライトが灯されます。
 
 
 
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 これは別の日に撮影した、教区のシンポジウムのときの写真。
 明るい礼拝堂は、100人以上が入ることができる大きさ。
   


 
 
  さて、この日のつどいは…。
 京都教区で昨年に設置された、
 「不登校・ひきこもりの青年や家族と共に歩む委員会」
 が初めて主催する講演会。
 
 
 
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  ロビーで受付がなされている。

  どんどん人が増えていき…

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 最終的に50人を越す盛況だった。

 そして、不登校・ひきこもりの問題に取り組んでいる、
 精神科医による講演の内容は、とても興味深いものだった。

 会の持ち方で工夫されていたのが、
 講演後の質疑応答の時間のために、
 手を挙げて直接質問しにくい場合のために、
 質問カードを来場者に先に配っておき、
 それを後で集めて、司会者が代読して、
 講演者に答えてもらうというやり方。

 もちろん、普通に挙手して質問し、
 直接に講師と対話することもできる。

 書かれて提出された質問カードは10枚近くあって、
 司会者が代読して尋ねるたびに、
 講師がていねいに答えておられたのが印象的だった。

 一人の人が言葉を語ること。
 一人の人の言葉を聴くこと。
 お互いの言葉を聴きあうこと。
 
 この講演会では、
 一人の人の講演を聴くことによって、
 聴く一人ひとりからの言葉が生まれ、
 それがそのまま口から発せられたり、
 文字になったり、代読された言葉になったり、
 それらの言葉に応える言葉がさらに生まれたりと、
 いろいろな言葉があった。

 おそらく、人の心の奥底にある、
 言葉にならない思いこそが、
 もっとも大切なものであろう。

 しかし、人は、それだけでは生きることができない。
 私たち、どういう形であれ、(文字やふるまいも含めて)
 何らかの言葉を使って、互いの存在を確かめ合いながら、
 ようやく、かろうじて、生きることが可能になる。
 
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 洛陽教会の礼拝堂の前方壁には、
 十字架の下に、
 精密な木製の彫刻(立体構造の装飾)があり、
 この礼拝堂を特徴付けている。

 この彫刻が目に入るとき、
 私たちは、
 木の暖かみ、荘厳さなどの、
 いろいろな感覚を感じることができるだろう。

 その印象は、
 言葉になるような気もするし、
 ならないような気もする。

 言葉にならぬものは、
 言葉にしないままで、
 いいのだろう。

 言葉を大切にすることも、
 言葉にできないものを大切にすることも、
 どちらも大切だから。

 神様のことを思うときにも、
 人のことを思うときにも。

 そして、
 自分のことを思うときにも……。

 


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