京北(きょうほく)教会ブログ──(2010年〜)

日本基督(きりすと)教団 京北(きょうほく)教会 公式ブログ

受難週に入って

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 教会の暦で「受難週」に入った。
 イエス・キリストの十字架の受難を心に刻みつつ、この週を過ごす。
 それは、同時に一人ひとりが、自分自身の十字架を負って生きることについて心に刻むときでもあろう。

 教会で「十字架」というとき、それはまず何よりもイエス・キリストの十字架を指すのだが、同時に、この「十字架」という言葉に、受難、重荷、負うべきもの、生き方・死に方、など様々なイメージをも重ねて、教会では受けとめていく。それは、教会では、一人ひとりにとって、イエス・キリストが身近な方であるからこその理解であるといえる。

 十字架の意味とはなんだろう?

 皆様にとって、イエス・キリストの十字架の意味の理解はいろいろあるのだと思う。
 ひとつでなくていいはず。
 ゆっくり考えたらいいのだと思う。
 教会につながりながら。
 自分のことも人のことも大切にしたいと思いながら。


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 4月18日(月)午後7時~8時30分に、京北教会を会場にして、京都南部地区六役会主催の「東日本大震災を心に刻み、共に祈るつどい」が開催された。19の教会から28名の方々が参加してくださった。

 京北教会の有志の方々が、当日の様々な奉仕を申し出てくださり、準備をしてくださった。感謝にたえない。

 この日、夕方から雨が降り出してきた。そのことに加えて、夜の集まりであることもあって、このつどいに来られる人は少ないかもしれないと感じたが、それぞれの場から、たくさんの方が都合をつけて来てくださった。感謝でいっぱいの気持ちになった。

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 3月下旬から4月上旬にかけて、京都から仙台を訪れて「東北教区センター」に行き、そこを拠点に行われている被災地域と被災教会の支援のための各種ボランティアに参加された牧師と大学生のお二人からの報告を聴いた。現地で撮影された写真や動画をパソコンでプロジェクターにより映し出しながらお話をしてくださった。感謝。

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 報告のあと、質疑応答の時間に、質問が途切れることが無かった。その後に祈るときをもった。

 皆さんは(小さな組に分かれて)それぞれにご自分の言葉で祈られた。

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 「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、私に何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたが私の名によって何かを願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
             (ヨハネによる福音書 16章22~24節)

 
 わたしたちは、この聖書の言葉にあるように、イエス・キリストの名によって願った。祈った。

 十字架を負ったイエス・キリストの名によって。